2016.06.05(SUN) 会津藩校「日新館」・大内宿(福島県) |
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7:11 朝日を浴びて山の白藤が綺麗 |
7:14 ペンションからの猪苗代湖方面 |
9:28 県道7号から磐梯山(表)を望む |
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9:30 |
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2016.06.05 会津藩校・日新館 |
県道には磐梯山を望む場所がある。 |
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会津藩校「日新館」は、会津若松城の西隣に設けられた会津藩の学校で、1803(享和3)年に開校。
「ならぬことはなりませぬ」など、会津藩士風と儒学を教え、数ある諸藩の藩校の中でも最大規模といわれていた。
惜しくも戊辰戦争で焼失しましたが、1987(昭和62)年に会津若松市郊外の河東町に完全復元され、その壮大な規模と学習の様子を見ることが出来ます。やや交通の便は不便で山の一角に建てられている。駐車場からは階段を上り南門から入る。
全ての学校施設が復元されており、江戸時代のプール(水練場)などもあり、厳しい武士の教育を肌で感じることが出来る。 |
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会津藩校「日新館」 |
10:20 戟門(げきもん)
戟という武器を持っ
た衛兵が守護しました。 |
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10:20 西武学寮 剣術や槍術など
武道の練習場として使われた。 |
10:35 大成殿
儒教の祖である孔子を祀った建物。 |
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白虎隊士の授業風景
東塾
大成殿の東に配され、
西塾と合わせて素読所という
初等教育の場所で10歳で入学すると、
まずは
論語を中心に漢文の読み方を学習。
4等級に分けられて教育が進められ、
成績優秀な生徒は飛び級も可能だった。 |
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10:36 |
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11:06 水練城 |
11:21 水練城 |
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水練場
日本初のプールといわれ、周囲85間(約153m)で向井流の泳法を学習。
甲冑を着けての水練もあった。
藩校で水練場を備えていたのは、ほかには萩の明倫館(山口県萩市)だけ。 |
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11:37 「日新館」全景 |
↑↑ 天文台からの日新館全景 ↑↑ |
11:38 会津磐梯山(天文台から) |
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← 天文台・階段の勾配はキツイ
11:39 |
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15:26 大内宿 ↓ 2016.06.05 |
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江戸時代にタイムスリップ |
大内宿裏山からの全景 |
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まるでミニチュアを見ている感じになる。 |
16:00 西陽が射し綺麗に映えた。 |
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大内宿
江戸時代の宿場の面影を今もそのままに残した村。
街道は関東側からの呼称は「会津西街道」また、会津側からは「下野街道(しもつけかいどう)」あるいは「南山通り(みなみやまどおり)と呼ばれ、 会津若松と日光今市を結ぶ重要な道であった。
大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町である。
江戸時代は、会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米(かいまい)の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であった。
延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶えた。3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没(現在の五十里ダム付近)。会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが別ルートが定着したため復旧を断念した。 |
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